天下の悪法“遺留分”を回避せよ! “How to Avoid Bad Law!”

第12回:「天下の悪法」の回避方法を考える~その4

今回は信託法と民法の違いという内容ですから、少し専門的な話になることをご了承ください。

まず民法における「契約」ですが、「少なくとも2名以上の当事者が存在する」という大前提があると思います。

要するに債権者と債務者とか、賃貸人と賃借人のような感じで、必ず「誰かと誰かの契約」ですよね。

ということは、その誰かと誰かが同一人物になってしまった場合には、契約は「混同」でもって消滅するということになります。

例えば、親が子にお金を貸していて、親の死亡によって子が全財産を相続した場合、債権者と債務者が同じになるのですから、当然に契約は混同消滅です。

ところが信託法は、信託の形として「信託契約(委託者A・受託者B)」の他に「自己信託(委託者A・受託者もA)」という設定方法を認めており、最初から民法では想定できない制度を置いていると言えます。

かつ受託者は自由に変更できるのですから、例えば信託契約の受託者をAに変更するとか、自己信託の受託者をBに変更するとかいったことが可能ということになります。

前者であれば実質的には信託契約から自己信託に移行したみたいになり、後者であればその逆になりますが、もちろん混同消滅することはなく、民法的な発想では絶対に起こり得ない現象が発生します。

次に、民法の原則では所有権というものは非常に強い権限を持っており、一度所有権者になると、その人の意思に関係なく所有権が剥奪させるということはありません。

また、民法では人が死亡すれば必ず相続が発生し、要するに所有者が存在しなくなるとか、誰なのか分からなくなるという事態は全く想定されていません。

ところが、信託法においては、契約は委託者と受託者との間で行われるものであり、実際の権利者である「受益者」は契約当事者とはなっていない上に、信託法第89条には「受益者変更権」なるものがあり、受益者の意思に関係なく受益権を剥奪して他の者に与え直すという行為が可能となっていますし、第91条には受益権の承継に関して「受益権の消滅と発生」や、「受益者連続」という次の次の承継者まで最初から決めることができるという規定が置かれており、これも民法的な相続の発想では絶対に考え得ないものでしょう。

さらに第163条第3項では受託者が居なくなっても1年間は信託が終わらないとされていますが、これも民法では当事者が死亡すれば相続人が地位を引き継ぎ、会社の解散などで当事者が本当に存在しなくなれば清算手続きに入りますから、民法では有り得ない規定ということです。

さらにさらに、第258条などでは、受益者が存在しない信託も認められており、もう民法の世界の常識は通用しない、完全に別の世界を信託法は構成しているとしか思えません。

それは何故かと申しますと、これまでにも説明してきましたように、信託という概念自体が、フランス民法をベースにしてきた我が国の民法には存在しないというのが最も大きな原因ではないかと考えます。

大英帝国で十字軍の遠征をきっかけとして信託の仕組みが確立したのは、フランス民法ができるよりも前の話なのですが、当時の英仏は敵同士だったのですから、敵側が発明した素晴らしい制度をナポレオンが敢えて導入しなかったのは、何となく分かるような気がしませんか?

そういった経緯もあり、明治時代に導入された我が国の民法には、「典型契約」と言って売買とか賃貸借とかの契約について条文の中で示していますが、信託はその中には入っていませんから、最初から民法ではない法律で司るべきことが前提となっているのでしょう。

実際、歴史的にも我が国に信託が入ってきたのは明治民法制定以後の時代に金融制度として導入されたものであり、かつ信託法は大正時代に悪質な信託会社を取り締まる目的から作られたもののようですから、そもそも金融行為以外で国民が広く信託を活用するという発想自体が無かったのですね。

しかし、現在の信託法は小泉構造改革の副産物なのですから、アメリカの信託制度を取り入れており、明らかに一般国民が自らの財産管理や承継に使える内容となっていますので、ここに旧来の制度である民法の相続の規定とのバッティングが生じてくるのは当然の帰結であり、これを想定できず、民法との間の優劣を決める規定や調整事項などを作っておかなかった立法者の落ち度でもあると私は思います。

法律上で明確な優劣や調整の規定がないということは、民法と信託法とを比較検討した上で、バッティングする部分についてどうすべきかを結局は裁判でもって決するしか、最終的な方法はないというのが現状ですが、本来であれば民法の方を改正して国民のニーズに合わせるのが筋でしょう。

次回は、遺留分制度と並んで、現行民法がおかしいために大変な不便があるばかりか、社会問題を数々引き起こしている「所有権」という制度と信託の関係について考えてみたいと思います。

※前回も少しお話しましたが、我が国の専門家の知識の狭さは、逆に自分の専門分野についてのみ異常に知識が深いだけに、由々しき問題だと思うのです。

でも、いちいち「常識を疑って」いては、国家試験に合格できませんから、致し方ないのかも知れません。

信託法は民法の常識を大きく覆してしまっている制度なのですが、どうしても民法を深く学んできた専門家には理解できないようで、無理矢理に民法の範疇で解釈しようとして間違ってしまう人も多いみたいです。

専門家の方々は頭が良いのですから、その良い頭でもう一度ゼロから信託について考え直していただきたいと思います。

科学や医学の世界は、「常識を疑う」ことで発展してきたのですからね。