~歴史体験ファンタジー~ 田和家の一族

第13回から第18回の総括

さて、田和家の一族は日本に戻り、明治と昭和を体験しましたね。

前回の総括でお話しました「大陸法」が明治時代の我が国に入ってきたのですが、実際にあのような決まり方をしたかどうかはともかく、相続の部分に関してはナポレオン法とは異なる日本独自の家督相続と隠居という仕組み、いわゆる「家制度」が正式に民法典に採用されました。

私たちの世代は、「家制度」というと、自由と平等を旨とする日本国憲法の時代にはそぐわない古臭くて不公平なとっても「悪い制度」だ、と何となく教えられてきて、誰もが何となくそう信じ込んできましたが、冷静に考えてみると、果たしてそうなのだろうか?と疑問に思えてなりません。

本稿の中でボアソナード教授のセリフにあったような、「戸主は歳を取ったら隠居して後継ぎに財産を生前相続させる、そして後継ぎは家督相続人として、他の家族全員を責任を持って扶養する、これが日本国にとって最も相応しい制度である。」という考え方は極めて的を得ており、これを単に前時代的な悪い制度と一言で片付けられるものとは思えません。

実際、現在でも由緒正しい旧家においては、後継ぎとしての崇高な使命を帯びて特定の一人の子が全責任を持って「家名」を継いでいる(財産だけではなく親兄弟の世話や先祖の供養から借金まで)例は少なくありませんし、また我が国の中小企業の多くは「親族承継」ということで、後継者として特定の一人の子を指定するのが普通のことなのですから、良い意味での「家制度」は国民の間で浸透し、現在においても大切に守られ続けているのです。

そのことからも、自由と平等を旨とする日本国憲法の時代であるからこそ、家制度の強制はいけないとしても、「敢えて家制度を選択する自由」もあって当然なのではないでしょうか。

しかし、昭和の民法では、家制度を完全に前時代の遺物として、国家権力でもって徹底的に排除するという流れとなり、それがGHQの財閥解体のニーズと合致して、現在の民法が出来上がってしまい、意図的に遺留分制度が残された、というのは、単に私の仮説に基づくドラマというレベルを超えた、極めて真実に近い話なのではないかと思います。

以上のような歴史的経緯から、私は現在ある遺留分制度は、「家制度撲滅」という美名を借りて日本人の財産を無用に散逸させ、かつ本来は仏教用語であり、「相(すがた)を続(つづける)」という美しい風習であった筈の相続を、死亡した人の財産に群がるハイエナのような一部の相続人(遺留分権利者)だけを利する「争続」に変えてしまい、かつ「田分け」によって数十年の時間をかけて日本国全体の国力を衰退させるばかりの、まさに「天下の悪法」でしかないと考えています。

本稿の中で遺留分維持派の人が、遺留分制度が必要な理由として「生活保障」とか「相続の平等」とかを並べていますが、これも本稿の中で白洲次郎のセリフにあるように、「生活保障というニーズはあるのかも知れませんが、それは裁判所なりが個別に判断することであって、全国民を対象とする一般法である民法典で一律に規定することではありません。」「日本国憲法では、確かに14条で平等原則を謳っていますが、そこに相続人の平等という観念は一切ありませんし、逆に29条で私的財産権の絶対的保護、13条で幸福追求権を認めていますので、財産所有者が自分の思い通りに遺産を相続させられなくなる遺留分制度は憲法違反となる可能性もあると思います。」と私は思います。

私は数年前、「家族信託実務ガイド」という専門家向きの雑誌に、「誰も言い出せなかった民法の闇・遺留分制度のタブーに挑む」という連載を約1年半、7回にわたって行ったことがあるのですが、これがまた見事なことに全く誰一人として反応する人がなく(匿名での誹謗中傷は少しあったようですが・・・)、遺留分制度を語ること自体が、専門家業界においてここまで「タブー」であったのかと改めて感じたものでしたが、未だにその本当の理由は分かりません。

今後は、連載小説よりも更に直接的な方法でもって遺留分制度の問題点を指摘して行こうと思っておりますので、批判や反論のある方は、是非とも堂々と名前を名乗った上で、理論的にご発言をいただきたいと願っています。

さて、田和家の一族はついに昭和の民法改正を見ることになりましたが、果たして次は何処に行くのでしょうか?

意外な所に行く予定ですので、どうぞお楽しみに。