~歴史体験ファンタジー~ 田和家の一族

第5回から第9回の総括

さて、田和家の一族と行く鎌倉時代から南北朝時代への旅、如何でしたでしょうか?

我が国の法律の歴史ですが、成文法(ちゃんと文章になっている法律)の最初は、日本史の教科書でお馴染みの聖徳太子が推古12年(604年)に作ったと言われている(異説あり)「十七条憲法」で、その後は大宝元年(701年)の「大宝律令」、延喜5年(905年)の「延喜式」、貞永元年(1232年)の「御成敗式目」、そして明治23年(1890年)の「大日本帝国憲法」、昭和22年(1947年)の「日本国憲法」まで、いわゆる国家の根幹に関わる基本法が制定されてきますが、この連載でテーマとしている「財産」に関する法制度については、基本法とは別の形で、有史以来何度もの大きな変遷がありました。

農耕民族である日本人の財産、特に「土地」への執着心は太古の昔から強かったようで、紀元前の時代から土地の支配権争いがあったそうです。

しかし、当時は個人所有という考え方は存在せず、土地は集団で所有し、武力で土地を守るということだったようです。

その後に十七条憲法を経て、大化の改新(645年)により「公地公民制」が導入され、全ての土地は「国有」となります。

しかし、大化の改新から約100年後の天平15年(743年)に、聖武天皇の勅により、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」が制定され、実質的に個人の所有権が認められるようになり、これが武家社会になって「所領」を分け合う文化に変わっていったようです。

以後は、本連載にもあるように、御成敗式目による「田分け」の時代、後醍醐天皇による「田寄り」の時代、さらに再び武家社会となって室町時代の「継子単独相続」の時代、戦国大名による「国盗り」の時代、豊臣秀吉による「太閤検地」を経て、平和な江戸時代を迎えます。

江戸時代には、土地の本質的な所有権は幕府(徳川家)にあるので、売買の対象となったのは「専用使用権」であり、その取引の際に幕府が発行したのが「沽券状(こけんじょう)」と呼ばれる、現在で言う「権利書」ということになります。

江戸時代の相続制度ですが、当時は慣習法がメインだったこともあって、時期や地域によって結構変化に富んでおり、家督相続的な方法もあれば均分相続的な方法もあり、さらに「書残(かきのこし)」という遺言も多く使われたようです。

そして、いよいよ明治を迎え、再び民間人の土地所有権が認められて、本格的な「家督相続」の時代が始まるのですが、その時にフランス民法の制度を取り入れて、初めて「遺留分」という考え方が発生しました。

しかし、当時の遺留分制度は現在とは全く違う目的のもので、請求権者は「家督相続人」のみです。

すなわち、財産は「家」のものなので、戸主が勝手な遺言をして「家」の財産を他者に渡してしまった場合に限り、家督相続人が「一部を家に戻せ」と請求できる権利であった訳ですから、当時の制度から考えると極めて正当な存在理由があったと思います。

ところが、その遺留分制度が、日本国憲法になった後の新民法でも、主役を「法定相続人」に変えただけで存続してしまい、私はそれが全ての間違いの始まりなのではないかと考えています。

「遺留分は遺族の生活保障」であるとか「被相続人が自由に処分できる財産は限定されている」とか遺留分の存在理由を並べる人もおり、彼らは二言目には「親父が愛人に全部やると遺言したら困るでしょ?」と言いますが、私はそうは思いません。

この令和の時代に遺族の中で生活保障までしてやる必要がある例は稀でしょうし、個人財産は本来自由に処分できるべきものですし、ましてや「愛人に全部」という遺言をされるということは、そもそも家族関係に問題があるということであり、全て議論のすり替えでしかないのではないでしょうか。

さらに時代と場所を変えながら、この連載小説を続けることで、我が国の現行民法の問題点をご一緒に考えてみたいと思っています。

最後までお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。

※墾田永年私財法は、変に語呂が良いためか「レキシ」というバンドの楽曲になっています。

なかなかの名曲ですので、一度聴いてみてください。それから、「君に家督を譲りたい」もイイ曲ですよ。