~歴史体験ファンタジー~ 田和家の一族

第7回

エピソード2 ~鎌倉時代:御成敗式目編~その3

他の御家人たちが文句を言いながら帰ってしまった後、この時代では何故か非常にしっかりしている法男は、物知りそうな頼綱に事情を聞いてみることにした。

「執事、どうしてこのような事態になったのですか?」

「まずは、蒙古が攻めてくるなどという事態は想定外だったことじゃが、そもそもの原因は御成敗式目にあると思うのじゃ。」

「どうして北条泰時公は、あのような法律を作ったのでしょう?」

「承久の乱(じょうきゅうのらん)で朝廷側に勝利して以降、幕府の勢力が全国に及ぶようになったのじゃが、各地でバラバラの慣習法的なものが使われていてな、統一的な支配のために成文法が必要になったというのが原因らしい。」

「では、どうして所領が隠居や相続でバラバラになるような制度にしてしまったのでしょうか?」

「おそらく、当時の武士は自分の所領を持つということへの執着が強かったんじゃろう。少しでも所領を持っていたいという要望が強くて、それで一つの家の限りある所領を兄弟皆で分ける法律になったのではないかと思う。」

「しかし、50年100年で大変なことになるのは分かっていたのでは?」

「泰時公は分かっておられたと思うのじゃ。それで御成敗式目の中に、悔返権(くいかえしけん)という、一度渡した所領を、親側が取り戻す権利を認めておる。」

「くいかえしけん??」

「しかし、実際にはあまり悔返権が行使されることはなかったのじゃ。当時の武士は戦に慣れていて荒っぽかったので、反乱でも起こされると困るし、彼らの目先の要求に大過なく答えようとしてしまったのじゃろう。」

「実際、私の所領は50年前の10分の1になっております。」

「まさに田分けじゃな。」

健人は「田分け」という言葉を耳にした瞬間、真っ赤な閃光がチラっと見えたような気がしたが、何も起こらなった。

頼綱はつぶやく。

「やはり、均分相続を認めたのが、我が幕府の失敗の始まりかも知れんなぁ。」

「どうすれば解消できるのでしょうか?」

「それは蒲池殿、所有権というものは、お国と所有者との約束事で守られているんじゃから、お国が覆らん限り無理というものじゃろうて・・・。」

 

健人は自分の屋敷に帰ることにしたが、どうも記憶が曖昧で不安なので、法男に一緒に帰ってもらうことにした。

そして帰宅してみると、何故か両親も弟の圭司も普通に鎌倉人として暮らしている。

圭司が言う。

「兄様、お久しゅうございます。ご無事ご帰還、何よりと存じます。」

そこで急に、健人は何故か未来の事を思い出したのか、圭司に向って毒づく。

「俺は九州まで行って命懸けで蒙古と戦い、大殊勲を立ててきたのに、恩賞な何もなしだ。それに引き換え、お前は戦地にも行かないで、屋敷で家族とノンビリ暮らしていて、親から貰える領地は俺と同じなのかい。こんな不公平はないぞ!」

すると、圭司もタメ口になって言い返す。

「そりゃ、兄さんは頑張ったのかも知れないけど、御成敗式目はお国が決めた制度なんだからね。」

「このままだと、あと100年も経てば領地はバラバラになって、家がなくなってしまうぞ。」

「そんなこと、俺に言われても困るよ。」

「では、領地は仕方ないとして、不公平になる分だけのカネを寄越せ。」

健人が圭司の胸倉に掴みかかろうとするところを、心優しい法男が止めに入ったその時、反対方向を向いていた母の景美子が振り返りざま、健人に向けて大声で怒鳴った。

「このタワケが!!」

その瞬間、真っ赤な閃光があたりを包み込み、世界の全てがストップしたかのように見えた・・・。

(つづく)

 

用語の解説(詳しくは日本史の教科書やWikipedia等で!)

・承久の乱

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、鎌倉幕府に対して討伐の兵を挙げた、我が国史上初の朝廷対武家の戦乱。

武家側が勝利したことにより、北条家による執権政治が確立した。

 

・田分け

子供の人数で田畑を分けて、孫の代、曾孫の代へと受け継がれて行くうちに、それぞれが持つ面積が狭くなって少量の収穫しか入らず家系が衰退することを言い、愚行の象徴として「タワケ者」の語源となった。

皮肉にも、一時は世界を制覇した蒙古(モンゴル帝国)も、「田分け」によって滅亡が早まったと言われている。

 

※本稿の中の歴史的事実の記載については、全くの間違いではないらしいとは言え、かなり適当に盛っておりますので、その点は悪しからずご了承願います。