鴛鴦(OSHI-DORI)外伝その1

第5話:触媒効果

緑野真凛と青芝優也が帯広兼蔵と会った翌日、早くも下妻一馬税理士から、帯広兼蔵の相続税額シミュレーションに、兄の帯広倉蔵の財産と、亡妻の実家の財産が加算された“訂正版”が送られてきた。

そのデータを見ながら、優也は真凛に言っている。

「さすがは閻魔さん、仕事が早いな。それにしても、兼蔵さんのお兄さんや、奥さんの実家の財産について聴き漏らしていたことについては、何も言わないんだ。」

「そうね。でも私たちだって、チェックシートがなければ、その話題に辿り着けたかどうか分からないんだから、仕方ないんじゃないのかな。」

「そうだね。まぁ相続税は兼蔵さんがお亡くなりになった時点で最終計算なんだから、今現在の状況を完璧に把握しておく必然性は薄いかも知れないけど、相続対策全体としては財産の漏れがあるのは致命的な失敗になるリスクがあるよね。」

「そうなの。その意味から、チェックシートみたいなテクニカルな方法も勿論重要なんだけど、それ以上に当事者から正しい情報を引き出す対話術みたいなものが大切なんだって、今回でよく分かったわ。」

「僕ももっと対話術を勉強して、マリンさんのお役に立てるよう尽力させていただきますよ。」

「まぁ!おしどり運送に行く最初の頃は、秘書だとか何だとか、私のことちょっと舐めてたのに。」

「そう、君子豹変って言うだろ。正しいことが分かれば素直に従うものだよ。」

「分かればよろしい。」

「でも可愛くないのだけは、ちっとも変わらないな。」

こうして優也は、真凛の膨れっ面を作って楽しんでいるのであろう。

そして数日後、二人は兼蔵の紹介で、同じ太田市の町外れに住んでいる帯広倉蔵と面談することになった。

優也が、今度は自分がメインでヒアリングをしたいと申し出たので、真凛も優也に任せてみることにしようと思っていた。

張り切った優也は、事前に一人で兼蔵の自宅に出向いて、兄の倉蔵との思い出や倉蔵の職歴、性格などをヒアリングしてきたようだ。

「倉蔵さんは、今は廃止になってしまった高崎競馬場で調教師をしておられたそうなんだ。」

優也の言葉に、競馬のことは分からない真凛が答える。

「調教師って何する仕事なの?」

「競走馬を訓練してレースに出走させるために鍛え上げる仕事だよ。」

「ふーん。じゃあお馬さんがお好きなのかしら。」

「そりゃ、お馬さんがお嫌いってことはないだろうね。実は僕も競馬は嫌いじゃないから、とっても興味があるんだよ。」

初めて会う倉蔵であるが、おひとりさまで長く一人暮らしであるせいか、来客が嬉しい様子でとても機嫌が良く、また優也の予想通り、倉蔵は今でも競馬が大好きなようで、最初から最近の大きな競馬のレースの話題で二人は盛り上がっていて、真凛が入る隙がないようだ。

ひと渡り競馬談義をした後、優也が聞き出した情報によると、倉蔵は自分が寿命の最後まで暮らせるだけの金銭さえ確保できるなら、死亡後のことは弟の兼蔵と甥たちに全部任せたいとのことであった。

「親愛信託という方法を使われれば、倉蔵さんがご病気とかになられた後も、ご自宅を売却するなどの方法でもって、生活に必要な金銭は確保できますし、万が一の事態が発生した後も、弟さんたち一家に、帯広家のお墓やお仏壇も含めた全ての財産をスムーズに承継させることが可能になります。」

優也が、真凛が説明すべきことを全て上手く説明してくれたので、今回の真凛は横で聞いているだけであったが、満足感は自分が説明する以上のものがあるなと感じていた。

帰り道のカフェで、二人が話している。

今回は真凛の出番が少なかったので、コーヒーに入れる砂糖はスプーン3杯程度のようだ。

「マリンさん、次は兼蔵さんの奥様の実家の問題だね。」

「そうね。奥様の相続権は、今は兼蔵さんと義雄さん、それから勝次さんに渡っているから、どうしても勝次さんを外しては進められないの。」

「そうだよね。先日の話では、勝次さんに対する思いが、兼蔵さんと義雄さんとで微妙に違うように感じたんだけど、マリンさんはどう思ったかな?」

「確かに、義雄さんは表面には出されないけど、やっぱり同居して親孝行しているんだから、自分が中心で相続を受けて当然と思っておられるでしょうね。」

「でも兼蔵さんは二人の子を平等公平に扱ってやりたいって感じだったよな。」

「二世帯住宅や収益マンションは共有物にするべきではないから、やっぱり義雄さんが承継することになるんでしょうけれど、そうすると勝次さんに分けてあげられる金銭の額が限られてくるわよね。」

「確かに、不動産を義雄さんが承継すれば、残った金銭の大半を勝次さんに渡さないと半分半分にはならない計算だな。それに収益マンションには借金がくっ付いているし。」

「もちろん平等公平っていうのが、単に二つに分けることだけはないことは分かっておられるでしょうけれど、やっぱりこの機会にご家族で話し合われるべきかも知れないね。」

「幸い、今のところは特に仲が悪いというような状態でもないようだから、いいチャンスなのかも。」

「親愛信託の受益者連続機能を使えば、不動産の受益権をいったんは勝次さんに渡しても、勝次さんがお亡くなりになった後に義雄さんの息子の優馬さんに戻すっていうような仕組みも作れるしね。そのあたりも踏まえて一家で考えてもらいましょう。」

今の真凛なら、この程度のことは砂糖スプーン3杯くらいでも言えるんだなと、優也は変なところで感心している。

そしてその週末、帯広倉蔵の自宅に、兼蔵、義雄、勝次の三人が呼ばれて、久しぶりに全員で話をしたとの連絡が、真凛と優也に入ってきた。

優也は感心して言う。

「さすがは元調教師、倉蔵さんの指導力は凄いな。」

「そうね。倉蔵さんという、帯広家の今の長であって、かつ中立的で利害関係のない人が中心に立つことで、全員がスムーズに話し合えたみたいだね。」

こうして、自分たちが事細かく指導したり、煩く言わなくても、自発的に帯広家の親愛信託の内容が固まりつつあることに、真凛は満足感を抱いていた。

「これが、双葉梓先生が言っておられる“触媒効果”なのね。」

「あとは僕たちが上手く“エスコート”をすることだな。」

優也も満足そうであった。

(つづく)

 

登場人物紹介

帯広倉蔵(おびひろ・くらぞう 80歳)

帯広兼蔵の兄で、帯広家の長男。

生涯を通して独身で、亡父から相続した帯広本家を自宅としている。

以前の職業は調教師で、今は競馬を見るのが唯一の娯楽らしい。

※2004年まで、真凛の住む高崎の町にも競馬場があったみたいね!