しらしんけん/何日君再来
~一途な愛と変わらぬ情熱の物語~ 連載第6回
第1章:蛯沢☆愛 第5話
蛯沢純治からの電話が終わった後、蛯沢省吾は黙ってしまったので、中岡香織は、今日は込み入った話をするべきではないと考え、幾つかの報告と他愛のない話だけを済ませて社長室を立ち去った。
「純治君はお父さんに上手く話せるかな・・・。」
香織は心の中で思い、昨日の夜に純治から相談されたことを頭に浮かべる。
「姉さん、実はな・・・。」
父に似て内気で無口な純治は、重大な事を相談するのに、まだ付き合いの短い姉に対する言葉を選んでいるらしい。
「鈴華が妊娠したんや。」
花宮鈴華は17歳、純治の恋人である。
元々は、純治が暴走族をしている頃に、いつも見学に来ていた中学生の取り巻きの一人だったが、純治が怪我をして入院している時期に深い関係になったらしい。
香織は何度か鈴華の姿を見かけたことがあるが、香織からみれば完全に子どもで、とても人の親になれそうな風情ではなかった。
しばらく言葉を失っていた香織に対して純治は言う。
「俺、産ませてやりてぇっち思っちょんのや。けど、親父がなんちゅうかと思うと・・・。」
純治は“しらしんけん”みたいだ。
香織は、純治の顔を正面からしっかり見て、その決意の程を確かめた。
「分かった。それなら私は反対しないわ。」
「姉さん、ありがとな。」
純治は本当に嬉しそうである。
しかし、実際には香織から見れば、20歳になったとは言え、純治はまだまだ子どもであるし、ましてや母となる鈴華は17歳なのだ。
きっと、いろんな意味で苦労することになるのは間違いない。
そこで、香織は純治に釘を刺すように言った。
「でもお父さんには自分自身の口で言いなさい。あとは私がフォローするから。一度決めたことは曲げちゃダメよ。」
それで純治は意を決して父に電話をして“個人的に話をしたい”と言ったのであろう。
あとは純治がどこまでの勇気をもって父と向き合えるかであるが、香織は純治を信じようと思った。
おそらく、怪我をした純治が暴走族をやめてE社に入社したのは、香織の説得だけではなく、花宮鈴華の存在という部分も大きかったのであろうから。
形は違えど、純治は父の生きてきた道を、40年遅れで追い掛けているのかも知れない。
その意味でも、香織は純治と鈴華を応援してやらねばならないと思っていた。
こうして、蛯沢家には間もなく初孫が生まれようとしている。
なのに香織は夫とは遠く離れて暮らしており、そもそも子造りができる環境ではない。
そして蛯沢家の長男である蛯沢啓太には、子ができる可能性は皆無なのだ。
何故なら、かつて省吾を激怒させた存在である啓太のパートナー“シブちゃん”は、女性ではないのである。
啓太は幼少時から自分の性的嗜好が他者とは異なっていることに悩んでいたが、時代は徐々に啓太の嗜好を必ずしも特殊とは言わない方向に進んできた。
そして啓太はパートナーである“シブちゃん”こと渋谷真琴の存在を特に隠そうとはしなくなってきたところに、誰かの口から父の耳にそのことが告げられたのである。
古い価値観を持つ省吾にとって、啓太の嗜好は決して認められるべきものではなかったのだ。
実は、母の充子も同じく古い価値観の持ち主であり、そのために不用意な言葉を啓太に投げてしまったこともあったのだが、充子は今は深く反省しており、何とか啓太と仲直りしたいと思っている。
そして啓太はE社を離れて、美容師である真琴が住む福岡に移り、元々好きだった調理師の修行を重ねて、ついに夢が叶って間もなくイタリアンレストランを開業できることになった。
啓太は元々、バイクよりも調理の方がずっと好きだったので、香織も充子も本当に良かったと思っている。
蛯沢家の省吾、愛子、啓太、香織、純治は、それぞれに事情を抱え、そして何かを失い何かを得るという連鎖を続けてきたようだ。
そして啓太と香織の母である充子は今年の秋、省吾から分割で支払われていた慰謝料が25年の終了時期を迎えるのである。
香織は、自分がここに居るであろうあと数年の間に、可能な限りは縺れた糸を解きほぐす作業をしなければならない、それが自分の使命だと思うようになってきていた。
(つづく)
・花宮鈴華(17歳)
暴走族であった頃からの純治の恋人で、高校中退でバイト生活。純治の子を妊娠中らしい。