しらしんけん/何日君再来
~一途な愛と変わらぬ情熱の物語~ 連載第7回
第1章:蛯沢☆愛 第6話
中岡香織と蛯沢啓太の母である蛯沢充子が経営している大分市内の小料理店。
充子が今も敢えて蛯沢姓を名乗っているのは、蛯沢省吾に対する意地の一つなのであろう。
閉店後、香織は充子と話をしている。
父と離婚してから早くも25年、慰謝料の分割払いが間もなく終了することを香織は知っていることもあって、母の様子を見に来たのだ。
充子は一人で小料理屋を長年経営してきているだけに気丈である。
「キングのご機嫌はどうかい?」
キングとは、充子にとっての省吾の呼び名で、レーサー時代の尊称の一つでもあるが、嫌味の意味も、かなり込められているのではないかと思われる。
香織が帰ってきて2年、いろいろなことがあったが、母には余計な心配を掛けまいと、香織はあまり省吾のことや会社のことを話していない。
恋人の妊娠で、省吾と純治が30分以上も無言で睨み合っていたことなど、話したい話題はいっぱいあるのだが。
「いつも通りよ。」
こう答える香織に、少し悪戯っぽい目をして、充子は言う。
「ところで、クイーンの消息は分かったん?」
「えっ??」
「失踪したんやろ?」
クイーンとは充子にとっての愛子を呼ぶ名であり、きっと複雑な気持ちが込められているのだろうと香織は思っているが、失踪のことは誰にも知られていない筈なのだ。
「どうして知ってるの?」
「誰がバラしたんか知らんけど、結構噂になっちょんで。キングがクイーンに逃げられたっち。」
客商売をしている充子には情報網があるようで、結構早い段階からこのことを知っていたらしいのだ。
「そうなの、何だか怖いわねぇ。」
「手掛かりはあるん?」
香織は、ここで母に中途半端に情報を漏らすと、たちまち町中に広がってしまうのではないかと危惧したので、敢えて何も言わないことにした。
「今のところ何も分かっていないようよ。」
「キングの野郎、テレサテンの歌でも聴いてから泣きよんのやろうなあ。」
母は何でもお見通しのようである。
香織は、あまりこの話題を続けたくなかったので、話の矛先を変えた。
香織の言葉が、母の影響を受けて、少しずつ幼い日から使っていた地元言葉に戻ってゆく。
「で、お母さん、これからのことなんやけどー。」
母も程なく60歳、持病の慢性気管支炎があり、いつまでも店を続けることはできないだろうし、父からの送金が止まった後、母は生活に困るのではないかと香織は心配していた。
これまでの母は、香織からの支援の申し出を一切断り、自分で何とかすると言い続けてきたが、それは省吾からの定期的な送金があったからこそなのだろうと香織は思っていたのだ。
ここでも母は香織の思いなどお見通しだったのか。落ち着いて答える。
「私は大丈夫で。こう見えても備えはしちょんけん。」
「だったらええんやけど。」
「それより、あんたの会社やわー。はよ武司さんの所に帰れるように、上手くやりよなー。」
「せやな、最近は武司さんにも言われて、私も“しらしんけん”に考えよんのやー。」
母と話しているうちに、香織の方言も調子が出てきたみたいだ。
「それから啓太のことなんやけど、本当に悪い事をしたっち思っちょんのや。」
「せやな、兄さんもこのままでは淋しいわなー。」
「わりぃ(悪い)奴らに虐められよんのやねぇかっち、心配でなぁ。」
啓太は実際、小さい頃から性的嗜好のことで何度も何度も陰湿な虐めにあっており、充子は心を痛めていたのだ。
「昔とは時代が変わっとるし、兄さんはしっかりしとるから大丈夫だよー。」
「それやったらいいんやけどなぁ。」
「真琴さんは、ちゃーんとした、ええ人やし。」
香織は啓太のパートナーである渋谷真琴とは何度か福岡で会ったことがあり、信頼できる人物であることが分かっているのだ。
母は続ける。
「啓太、いよいよレストランを開業するそうやけん、これを機会に仲直りしてぇけん、口聞
いてもらえんかなぁ?」
母は、自分のことよりも啓太と香織のことを心配してくれているようだ。
「お母さんにとっては、私たちはいつまでも子ども扱いなんやね。でも嬉しいわー。」
香織は、図らずも若き日の省吾が原因で二つに分裂してしまった家族の両方に関係している唯一の存在が自分であることを、改めて実感していた。
(つづく)
登場人物紹介(第6回~第7回)
・蛯沢充子(えびさわ・みつこ 59歳)
蛯沢省吾の前妻で、啓太と香織の母であり、今も敢えて蛯沢姓を名乗っている。
省吾との離婚後は、大分市内で小料理屋を経営しながら、省吾から分割で支払われている慰謝料で生活してきたが、近々に支払期間が満了する。
香織とは今も頻繁に連絡を取っているが、啓太とは仲違いしたままなので、それをとても気にしている。