リネージュ(Lineage)

~二つの会社と三つの家族の愛情物語~

最終回:目覚めの囀り

中村綾香は1時間近くも竹籠を手に、自宅マンションのベランダで、外の世界に飛び立ってしまったのであろうメジロの潤ちゃんの無事を祈り、竹籠の扉を開けて帰還を願っていた。

綾香にとって、こんなにも長い時間、ずっと涙を流し続けた経験は、生まれて初めてであっただろう。

そして遂に諦めて部屋の中に戻り、放心状態で10分くらい経過した頃であろうか、綾香の耳に、あの囀りが微かに聞こえてきたのだ。

綾香には最初は空耳としか思えなかったが、囀りは止まらず、まるで綾香を呼んでいるように聞こえてくる。

そして次の瞬間、さりげなく綾香が目をやったワードローブに掛けられている、父の結婚式で着たドレスの向こう側から、その囀りが聞こえていることが分かったのだ。

「潤ちゃん!!」

綾香は、血の呪縛を背負った子として生まれて、これまでの人生で本当に様々な経験をしてきたが、もしかしたら今日が最も悲しみと喜びを同時に感じた日であるのかも知れないと思った。

決して失いたくないもの、決して失ってはいけないもの、そういったものが存在していること、そしてそんな大切なものであっても、それが一瞬で失われてしまうことが有り得るのだということを、この1時間余りの間で、この小さなメジロが、綾香に教えてくれたのであろう。

その日の夜、新潟市内で行われたS社とN社との幹部ミーティングが終わった後、大宮侑璃がS社の松本俊郎、N社の山田政二の両専務などの幹部社員全員を引き連れて、古町と呼ばれる新潟の夜の歓楽街に消えてくれたので、綾香と上川雅樹は二人だけになった。

綾香が事前に、新潟が大好きな侑璃に郷土料理店で大量の料理をご馳走し、食後の燕背油ラーメンにシメの笹団子パフェまで付き合って、そうしてくれるよう頼んでおいたのだ。

「他人に聞かれたら困る重要な話があるので、私のマンションに来てくれる?」

綾香は雅樹を誘い、二人きりの部屋で、初めて自分の出生の秘密を全て話した。

雅樹と将来一緒になるかどうか、今はまだ分からないが、親同士が結婚して、二人が“二親等の姻族”という名の親戚関係となってしまった以上、この話をしない訳にはいかないと、少し前から考えていたのである。

しかし、それだけではなく、今朝メジロの潤ちゃんから教えてもらったことも影響していたのかも知れない。

実は元彦と安子の結婚式の1週間前、真田辰夫が死去していた。

姉の静香から連絡を受けた綾香は、結婚式を目前に控えた父の元彦には告げず、一人で辰夫の葬儀が行われる山奥の小さな教会に出向き、辰夫が安らかに天国に迎えられたことを確認してきたのである。

こうして、綾香が公表していない親族は真田静香と、その子の一郎の二人だけになった。

綾香は、反社会勢力との疑いがあった辰夫という存在が神に召された今、静香と一郎とは親戚として親しく付き合って行きたいと考えており、元彦と安子が新婚旅行から帰ってきたら、自分の姉と甥っ子とを二人に引き合わせるつもりである。

雅樹は、まさか綾香にそんな過去があるなどと夢にも思ってはいなかったが、全てを隠さずに話してくれた綾香に感謝するのであった。

「綾香さん、ありがとう。よく話してくれたね。でも、僕は全然気にならないから。だって、綾香さんは綾香さんだから。」

「ありがとう、雅樹さん。今度、姉の勤める温泉旅館に行きましょうか。」

「そうだね、きっと素敵な姉さんと甥っ子さんだと思うな。ちゃんとご挨拶をしておかなくては。」

話が長引いて、長岡まで帰ることができない遅い時間になってしまい、雅樹は本当に久しぶりに、綾香の部屋に泊めてもらうことになった。

思えば二人が付き合い始めてからまだ半年ちょっと、この部屋で共に寄り添って一夜を過ごしたことは、実はまだ数回しかないのだ。

綾香と雅樹は、初めて二人が結ばれることになった日より以上に緊張していた。

しかし結局、二人は互いの体に触れることなく、そのまま朝を迎えることになったのである。

父から預かっている大切な宝物であり、一度は失ってしまったと思った後、無事に綾香の手に戻ってきたメジロの潤ちゃんが、爽やかな囀りで綾香を目覚めさせてくれた。

「おはよう。もう朝だよ。」

スーツ姿のまま眠ってしまった雅樹を綾香が起こす。

「おはよう。爽やかな朝だね。」

雅樹は、しっかりとした言い方である。

「雅樹さん、昨夜は何度も私の体に触れようとしながら、いろんな可能性を考えて思い止まったよね。」

雅樹は、以前に何処かで誰かから聞いたセリフと似ているので苦笑しながら言う。

「分かってたんだね。」

「そう、実は私も同じだったの。」

綾香の言葉に対して、雅樹はしっかり答える。

「僕も分かってたよ。」

「雅樹さん・・・。」

「それでいいんだと思う。綾香さんも僕も、これからは経営者なんだから、常にいろんな可能性を考えるべきと思ってるんだ。」

どうやら二人は同じ想いらしい。

「これから何が始まるんだろうね。」

「そうだね、全てはこれからだ。」

綾香と雅樹が、これからどんな関係になってゆくのか、今はまだ誰にも分からない。

しかし、二つの会社が幸せな統合を成し遂げ、三つの家族がそれぞれ幸せに向かって進んでいること、全ての関係者が会社と家族とに深い愛情を抱いていることだけは、間違いのない事実である。

メジロの潤ちゃんは、若い二人を優しく包み込むように、さらに爽やかな囀りを続けていた。

今は綾香と雅樹との間に、何の隠し事も秘密もなくなっている。

ただ、潤ちゃんの存在だけは、絶対に誰にも秘密なのだが。

(おわり)