リネージュ(Lineage)

~二つの会社と三つの家族の愛情物語~

第17回:ハニートラップ

N社では、連日のように会議が開かれている。

その内容は、いつものように秘書の大宮侑璃の口から上川雅樹に伝わってくるのであるが、今日は特に重要な情報があるので、終業後に外で話したいと侑璃から雅樹へのLINEがあった。

いつもは昼休みなどのちょっとした時間に情報を貰っていたので、今回に限って郷土料理店の個室を取ってくれと言われていた雅樹は、余程に重要な情報が入ったのであろうと身構えていた。

席に着いた侑璃は、いつものように大量の食事を注文する前に、今日は特大ジョッキのビールだけをオーダーして、最初に言う。

「窪塚専務は退任されるご意向のようです。」

「えっ?」

「前にも申し上げましたが、専務には若干後ろ暗いお付き合いがあるみたいでして、サウザンド建装さんとの提携で、いろいろと都合の悪いことも情報公開しなければならないので、その前に身を退いて、その後ろ暗い付き合いの会社の方に移籍されるらしいですよ。」

「なるほど。専務なりのケジメを付けられるということですね。」

「そのようです。そうすると不動産部門の会社の新社長の座が空くということになります。」

「そうですね。でもそれなら中村綾香さんが適任じゃないんですか?」

母の口から綾香と自分との関係が侑璃に漏れているかどうかは分からなかったので、雅樹は敢えて他人事であるかのように返事をした。

「いえ、中村綾香さんは今回の“鳥さん事件”を起こされた中村元彦さんの代わりにホールディングスの社長になられるでしょうから。」

「そうなんですか。」

勝手に“鳥さん事件”などという名前を付けている侑璃を可愛らしく思いながらも、まだ雅樹は、瑠璃が言いたいことに気が付かない。

侑璃は、痺れを切らしたように言う。

「雅樹さん、ノーススターの社長になってください。お母様もきっと喜ばれると思います。」

これで鈍感な雅樹も、ようやく少しだけ気が付いた。

そうか、侑璃は母と通じているので、母の依頼で雅樹をその気にさせるために言ってくれているのだろう。

しかし、何となく侑璃の様子が変である。

「雅樹さん、中村綾香さんとは別れられるのでしょ?」

どうして自分と綾香の関係を侑璃が知っているのか分からず、雅樹は疑問に思う。

そして、侑璃の次の言葉に雅樹は驚くのである。

「それならどうでしょう、私とお付き合いしていただけませんか?」

今になって気付いたが、侑璃はいつもとは違って、不自然に胸元の開いた服を着ているし、そう大量ではないにせよ、ビールも飲んでいる。

確かに雅樹は、侑璃が最初に入社してきた時には女性としての魅力を感じていたし、情報提供とは言え、こうして時々個人的に会うことは嫌ではなかったが、まさかこんなことを言われるとは夢にも思わなかった。

そもそも、雅樹には女性の方から言い寄られたという経験が皆無なのである。

雅樹は、いろいろな事に頭を巡らせた。

侑璃は雅樹が社長になれば、結婚することで社長夫人になれるのであるから、これはもしかしたら金銭目当ての行動なのかも知れない。

いや、しかし金銭目当てであれば、自分が必ずしも社長にはならなくても、オーナーとしての権利があるのだから、今までと同じことなのではないのか。

もしかしたら、これは母が仕向けたことなのかも知れない。

母は雅樹が綾香との関係に悩んでいることを知って、諦めさせるための仕掛けをしてきたのだろうか。

しかし、中村元彦の逮捕であんなに落ち込んでいた今の母に、そんな心の余裕はあるとも思えない。

雅樹は、さらに穿った考えをする。

もしかしたら、綾香が自分への気持ちを試させるために、侑璃に頼んだのではないだろうか?

しかし、綾香は侑璃とは面識がない筈だし、そもそもそんな手の込んだことをしなくても、自分の口で雅樹を問い詰めれば良いだけではないのか?

あまりにも長く黙って考えている雅樹の態度に焦れてきたかのように、侑璃は特大ジョッキのビールを一気に口にしてから、雅樹に体を摺り寄せてくる。

そして、侑璃の顔が雅樹の顔に接近してきた。

初めての経験に、雅樹はどうしていいのか分からなくなってきた。

でも雅樹は、直前まで近付いてきた侑璃の唇を避け、両手で侑璃の肩を押して引き離した。

その後、侑璃は急に表情を変え、ニコっとして言う。

「さすがは雅樹さん、必ず立派な社長さんになれますよ。」

侑璃は、誰に頼まれたのでもなく、これから社長になるべき雅樹が、女性からの誘惑、いわゆる“ハニートラップ”に耐えられるのかどうかを試したというのだ。

「雅樹さん、私が擦り寄った時に、いろんな可能性を考えて思い止まられましたよね。それでいいんです。並の男なら即座に理性を失う場面ですから。」

雅樹はあまりにも冷静な侑璃の言葉に、何も言い返すことができない。

「雅樹さんが社長になっても、ずっと秘書で使ってくださいね。秘密は絶対に守りますし、それに私には一緒に暮らしている怖―い彼氏が居ますから。」

雅樹には、どうやら極めて信頼に足る部下が一人できたようであった。

「では食事のオーダーをスタートさせていただきますね。とりあえず旬の刺身船盛6人前とノドグロの煮付け、栃尾の油揚げ、いごねり、するてん、鮭の焼き漬け、のっぺい汁、イタリアン焼きそば全部4人前で・・・。あっそれから次期社長、この店が終わったら三条カレーラーメンと燕背油ラーメンのどちらがいいですか? それから最後のシメは笹団子パフェでお願いします。高級料亭や殿町(とのまち)のラウンジに行くのは、社長就任後の経費が使えるようになってからにしましょうね。」

今日も間違いなく雅樹の財布はカラになるのであろう。

(つづく)