リネージュ(Lineage)

~二つの会社と三つの家族の愛情物語~

第4回:奪われた印鑑

中村綾香とのデートを終えて帰宅した上川雅樹は、母の上川安子と話している。

「マー君、遅かったのね。」

雅樹はもう31歳になっているのだが、ずっと同居している母にとっては、いつまでも子どものままなのだろう。

“マー君”という呼ばれ方は、雅樹は本当はとても恥ずかしいのだが、そのことを母には言えないまま時が過ぎている。

「今日も現場仕事、疲れちゃったよ。」

雅樹はまだ、中村綾香と交際していることを母に知らせてない。

「毎日そんなじゃ、いつまでたっても彼女なんかできないわよ。」

母の言葉への反発も少しあるが、綾香と交際を始めて半年、そろそろ母に言う時が来たかと雅樹は思った。

「ママ、実は付き合っている人が居るんだ。」

そして、雅樹は綾香のことを話し、サウザンド建装という会社名を聞いて、安子は夫が元気だった頃を思い出す。

「その綾香さんのお父さん、昔うちのパパの悪友だった人だよ。」

「悪友??」

中村元彦は、上川道春が元気だった頃、同じ商工会で知り合ってから意気投合し、どうやら悪い遊びも含めて度々一緒に行動し、二人で随分とそれぞれの妻に心配と迷惑を掛けていたらしい。

「あの人の娘さんかい。大丈夫そうかね?」

「綾香さんは大丈夫だよ。僕なんかよりずっとしっかりしてるし、会社だって、うちの会社よりもずっと立派だよ。綾香さんが宅建士の試験に合格してて、今度は不動産業にも進出するんだって。」

それを聞いて、安子はあることを思い付いた。

今から1年半前、夫であり、S社の社長であった上川道春の死は急な出来事であり、当時は専業主婦であった安子は、どうしたら良いのかすら、何も分からなかった。

しかし、道春が死亡しても、専務の窪塚と常務の山田の手によって、S社は何の問題もなく勝手に動いていた。

社長が不在でも現場は動くのである。

実際、建設部門も不動産部門も、社長が居なくなったからと言って、進んでいる仕事や取引を止める訳にはいかないし、いつの間にか“社長代行”と名乗るようになった窪塚専務が、勝手に今は亡き上川道春社長の名前を書類などに書いて会社の代表者の印鑑を押せば、取引先などは誰も何も言わないのだ。

しかし数ヶ月後、S社に多額の融資をしている越後第一銀行が、道春に代わる代表取締役を決めてくれないと法律的には事業を続けてはいけないので、融資もストップすると言ってきた。

100%株主であった上川道春の相続人は妻の安子と長男の雅樹、そして次男の慶次であり、安子は何も考えることなく銀行や司法書士などから示される書類に印鑑を押し、何の自覚もなくS社の代表取締役となったのである。

窪塚専務と山田常務は、道春には一目置いていたし、彼らなりに恩義も感じていたが、道春が居なくなっても自分たちだけで会社を動かせることを知ってしまったのか、代表取締役となった安子の存在を軽んじて、好きなように経営をするようになってしまった。

未だに“社長代行”を名乗り続ける窪塚専務から会社の代表者の印鑑さえも渡してもらえていない安子は、役員たちに取り上げられた経営権を取り戻すために長男の雅樹を入社させたのだが、気の弱い雅樹もまた役員たちに意のままにされてしまっている。

安子の理想は、雅樹が一人前になって、かつての道春のような立派な経営者となり、役員たちを付き従わせることであるが、今の雅樹の実力ではそれは無理だろう。

ただ、役員たちにも引け目はある。

窪塚が取り仕切っている不動産部門はバブル時の投資に失敗して未だに債務超過のままであるし、山田が取り仕切っている建設部門も最近では受注が減って収支トントンくらいまで落ち込んでいるようなのだ。

しかし、よく考えてみると、銀行からの大きな借金の連帯保証人は安子であり、仮にS社が倒産したとしても、破産するのは安子だけで、役員たちには何の責任も及ばないという、極めて理不尽な状況にある。

安子は、入社した雅樹を取締役に入れれば他の役員たちの横暴を抑えられると思っていたのだが、雅樹を後継者として取締役に入れると、銀行は連帯保証人に追加しろと言ってくるだろうという役員たちの言葉に屈して、今も雅樹は平社員、何一つ状況は変わっていないのだ。

そこで安子は、優良企業であるS社との提携関係を作り上げることができれば、一気に役員たちを見返すことができるのではないかと思い付いたのである。

しかし一方では、かつて夫の悪友であり、素行が悪かったであろう中村元彦の娘である綾香と、自分の大切な長男の雅樹との交際は、あまり積極的に応援しようとの気持ちになれない。

また、赤字会社であるN社が優良企業であるS社の支援を受けるために、息子と娘との交際を利用していると噂されるのも悔しいし、何よりも大事な一人息子の雅樹の結婚を、親の都合による政略結婚であるかのように思われるのは絶対に避けたい。

安子は、いろいろな思いを胸に、雅樹に言った。

「一度、その綾香さんとお会いしたいんだけど。」

勘が鋭くない雅樹は、この母の言葉は単に、やっとできた彼女に会いたがっているだけだとしか思ってはいなかったのだが、安子には野望があったのだ。

(つづく)

登場人物紹介

・上川安子(かみかわ・やすこ 60歳)

1年半前、夫・道春の急死により、何の自覚もなくN社を承継したが、それまでは専業主婦で、経営の経験など皆無であり、役員である窪塚と山田に助けられて、何とか経営を進めてきた。

しかし、不動産部門は元々から収益が悪かったところに、ここ数年は本業である建設部門も赤字化してきており、もし雅樹の交際相手の父が経営するというS社との提携や再編が可能であれば、会社を守れるのではないかと漠然と考えているが、長男の雅樹と中村彩香との交際自体は必ずしも好ましくは思っていない。

雅樹を溺愛しており、次男の慶次との関係は微妙である。