震災復興&歴史発掘ファンタジー

「ストロベリーランナー ~亘理伊達開拓団からのメッセージ~」

第6回:3.11 信幸と里美

2011年3月11日金曜日14時46分。

一瞬にして、全てが変わってしまった。

その時、斎藤信幸と柴田里美は、亘理町郊外の高台にある大雄寺の境内に居た。

ここはまさに明治2年、伊達邦成公が亘理伊達開拓団の結団式を行った場所である。

信幸の両親が作った農作物や、里美の両親が作った加工食品を、寺の住職に届けるため、軽トラックに乗って二人で来ていたのだ。

二人は明日から、“わたりっこ”のホワイトディキャンペーンのため、一緒に東京に行くことになっている。

そんな気持ちの高鳴りに押されてか、実は昨夜、信幸はやっとの思いで里美に告白をした。

その時、里美は“少し考えさせて”と言った。

実は里美は、その前の日、坂口雄太から“俺の船”のお披露目に誘われて、その時に彼からも同じく告白を受けていたのだ。

二人からの告白に悩む里美は、昨日の夜遅く、全員の共通の友人である村山広絵に電話で相談をしており、後で広絵に会って、もう一度考えてみようかと思っているところである。

そんな少しだけ微妙で気怠い空気の中に居る二人が車から降りて、荷物を降ろした時間が、まさに14時46分であった。

もちろん二人とも、生まれて初めて経験する大地震であったが、咄嗟の対応はそれぞれに大きく違っていた。

突然に襲ってきた大きな揺れに驚き、信幸は腰を抜かしたのか、その場にへたり込んでしまって、全く動くことすらできなくなってしまう。

それに対して、里美は臆することなく気丈に振る舞い、あることを冷静に思い出していた。

今から16年前、小学校三年生の時、北海道伊達市から交換留学生が来て、みんなが“夢のお仕事”の発表をしていた日の翌日、すなわち1995年1月17日午前5時46分、あの阪神大震災が関西地区を襲った。

この東北にまで被害こそ及ばなかったが、テレビの画面で連日見せられていた映像は、今も里美の目に強く鮮明に焼き付いている。

そしてつい最近、兵庫県から引っ越してきた、桜木司織(さくらぎ・しおり)という女性の司法書士が、自ら経験した阪神大震災のことを詳しく語ってくれ、里美は改めて災害の恐ろしさを認識し、そして災害発生の際に人が取るべき行動や態度や姿勢を学んできたところなのだった。

「大津波が、来る・・・。」

里美は直感し、携帯電話を取り出して、海側にある小さな工場を経営している両親に電話を掛けた。

「とにかく山の方に逃げて!!」

そして次に、海からすぐの所に自宅がある信幸の母に電話を掛けたが、もう電話回線は通じない・・・。

里美は、海岸部に住む雄太のことも気になったが、彼は漁師であるし、きっと適切な行動を取っていると信じようと思った。

周りを見渡せば、大雄寺にある亘理伊達家代々の墓石が、幾つか倒壊している。

「ご住職、大丈夫ですか!!」

テキパキと動く里美を尻目に、墓石の一つが足に当たって怪我をした信幸は、痛みと恐怖から一歩も動けず、両親に電話をして危険を知らさなければということにも気付かない。

たった半日ほど前の昨夜には「俺について来い。俺が里美を守ってやるから。」と言っていたばかりなのに・・・。

そして約30分後、その場所で、二人は世にも恐ろしい光景を目にすることになる。

小高い丘の上に建つ大雄寺、その境内にある亘理伊達家代々の当主の墓所の向こうには、亘理の海が手に取るように見えるのだ。

遥か遠くから、見たこともない巨大な水の塊が、陸地に向けてゆっくりと迫っている。

「これが、大津波・・・」

さすがの気丈な里美も、ただその場に立ち尽くすしか術はなかった。

痛む足のことも忘れて、信幸は取り乱す。

「父ちゃんは、母ちゃんは、・・・」

自宅に居て津波から逃げ遅れた信幸の両親は、1週間後に冷たい遺体となって発見された。

里美からの電話で急いで山側に逃げた里美の両親は、辛うじて一命を取り止めた。

しかし、里美の姉の智美は、出張先の東京で、仙台市の海側に住む、愛する夫と生まれて間もない長女が、津波にさらわれて命を落としたことを数日後に知ることになる。

(つづく)

※震災直後の大雄寺、亘理伊達家先祖の墓石で、ずっと向こうに見えているのが太平洋です。