震災復興&歴史発掘ファンタジー

「ストロベリーランナー ~亘理伊達開拓団からのメッセージ~」

第5回:本当の戦(いくさ)

明治2年9月。

大雄寺の境内で、田村顕允家老の声に、反射的に“申し訳ございません!!”と答えた斎藤幸信。

幸信の父・斎藤忠信(さいとう・ただのぶ)は、家格はそう高くはないものの、先祖代々亘理伊達家の忠臣であり、文武両道に優れ、厳格だが少し愛嬌もある父と、体は弱いが優しい母に育てられて、幸信は特に不自由なく成長していた。

亘理24000石は、東北にしては温暖な地域であり、人々の気持ちも穏やかで、領主・伊達邦成公の善政もあって、武士と農民との対立もなく、本当に平和な土地であった。

慶応3年1月に始まった戊辰戦争も、亘理の人たちにとっては遥か遠い彼方である“京の都”や“お江戸”での噂話にしか過ぎなかったのであるが、徐々に暗雲は東北にも押し迫ってくる。

慶応4年1月、既に江戸城の明け渡しを受けていた薩長を中心とする“新政府”より、仙台藩に対して、朝廷からの命令と称して、まだ果敢にも抗い続けている会津藩を討てとの書状が届く。

仙台藩をはじめ東北の諸藩は心中では薩長を憎み、会津藩に対して同情的であったが、度重なる強い要請と脅しから、遂に出兵することを余儀なくされ、同年4月、地理的に会津に近い亘理領主・伊達邦成は先鋒として出陣、斎藤幸信の父・忠信も軍に加わった。

徳川治世260年間、誰もが思いも寄らなかった“戦”が、実際にこの亘理の地を巻き込むことになったのだ。

武士の誇りを強く持つ父は、先祖伝来の斎藤家の家紋が入った鎧兜や長槍などを取り出してきて、臆することなく戦場に向かって行ったが、気の弱い幸信は未知の恐怖におののくばかりであった。

そして結局、仙台藩は、志を同じくする会津藩と戦うのではなく、東北諸藩に越後長岡藩を加えた奥羽越列藩同盟を結成し、“東軍”として、薩長を中心とする“西軍”と戦うという、最も厳しく辛い道を選択することになる。

だが、300年近く前の鎧兜と長槍の東軍と、アームストロング砲をはじめとする西洋から導入した近代装備を揃えた西軍とでは、戦う前からその帰結は見えていた。

同年8月、亘理の南側に境界を接する相馬藩は、西軍との戦いのさなか、突然に同盟を脱退して、優勢だった西軍側に寝返った。

斎藤忠信は、その時は小隊の長として果敢に戦っていたが、無念にも相馬藩兵の背後からの銃弾に斃れたのである。

夫の訃報を聞いた幸信の母は、元々体が弱かったこともあり、間もなく後を追うように亡くなってしまい、急遽家督を継いだ幸信は、一挙に両親を失って一人になってしまった。

そんな幸信を気に掛けて励ましてくれたのが、かつて斎藤忠信から学問と武芸を教わったことのある常盤新九郎、すなわち現在の田村顕允であり、今では実の兄のように接してくれているのだ。

「幸信、貴殿は亘理に残ることになるぞ。」

邦成公と共に蝦夷地に向かうべきか否か迷っていた幸信に、はっきりと家老は宣告した。

「邦成公は、この度の移住には独身者は加えない方針なのだ。」

これを聞き、幸信は失望と安堵の気持ちが相半ばであった。

しかし、幸信は武士としての立場から、家老に言い返す。

「それでは、そこもとには武士の身分を捨てて農民になれと仰せられるのか。」

幸信は、戦いで両親を失い、主君や同輩の多くは蝦夷地に去り、今や誇り高き武士の身分をも失おうとしているのだ。

田村家老は、幸信を落ち着かせるように、ゆっくりと話を続ける。

「この移住計画は、かつて誰もが成し遂げたことがなく、容易なものではない。しかし今後、この亘理の地を守ってゆくことも、同じく容易ではないと考えておる。貴殿のような若い独身者には、これからの時代の亘理を支えて貰わなければならぬ。確かに、我らは武力での西軍との戦(いくさ)には敗れたが、人としての本当の戦はこれからなのだ。」

「人としての本当の戦でござるか・・・。」

これまで幸信は、一瞬にして自分の人生の全てを変えてしまった戦争、そして父を奪った西軍と、裏切った相馬藩とを心から強く憎んでいたが、確かに田村家老の言う通り、そればかりでは前には進めない。

幸信は、幼い頃に父から教えられた話を思い出す。

あの伊達政宗公の従弟にして“伊達の三傑”と称えられた、亘理伊達家の初代当主であり、勇猛果敢な武将であって、かつ文人でもあった伊達成実公は、自らの兜の前立てに“毛虫”を使っていたが、毛虫は前にしか進むことはなく、後退など考えないからなのだと。

「幸信よ、前に進むのだ。」

田村家老の言葉に、幸信は頷くのであった。

この大雄寺の境内には、伊達成実公をはじめ、亘理伊達家代々の当主の墓所があり、その向こうには遥か太平洋が一望に見渡せるのである。

(つづく)