鴛鴦(えんおう)“OSHI-DORI”第5章 有限会社六川デザイン建設の巻

第4話:婚約破棄

早くも夕方が近付いた頃、青芝優也は六川初子に言う。

「社長さんは少しの間、何かの病気ということにして自宅で休んでおいていただく方が良いと思います。」

「はい、そのようにします。」

「それで、社長さん不在の間に、代わりに現場の指揮を執っていただける人材はおられますか?」

「はい、当社にはもう一人、大神信吾という一級建築士が在籍しており、日常業務は彼が処理できると思います。」

「では、他のスタッフさんに情報が漏れて動揺が起きないために、大神さんと今から連絡を取って面談することは可能でしょうか?」

「承知しました。大神さんは独り者なので、今からでも来てくださるでしょう。」

間もなく大神が六川家に到着し、初子がこれまでの事情を簡単に話して、優也と緑野真凛を紹介した。

大神は、見るからに頭が良く、切れ者的なイメージの人物で、すぐに概ねの事情を理解したようである。

「不渡手形の話は初めて聞きましたが、振出元の会社のことは、実は前から私は疑っていたのです。しかし六川社長は昔からの取引先だから大丈夫って、代金のほとんどを期日の長い手形で受け取ってしまっていましたから、こんな事態も想定すべきだったのでしょうね。」

真凛が言う。

「大神さんは、ある程度は分かっておられたんですね。」

「はい。しかし社長は私などの言う事には耳を貸しませんから。」

こう言った時の大神の表情が複雑な感じであったことに真凛は気付いていたが、その時は何も言わないでおくことにした。

初子が言う。

「主人には暫くの間、病気ということにして自宅で休んでおいてもらいますから、その間の現場の指揮は大神さんにお願いします。スタッフには絶対に秘密ですので、情報が漏れないようにお願いします。」

「分かりました。暫くの間でしたら何とかできるでしょう。」

「会社内のことについては、明日から栄子が手伝ってくれることになりましたので、何とか凌ぎます。」

そこで優也が言う。

「そんなことはないとは思いますが、もし万に一つ、六川社長の状態がなかなか元に戻らなかった場合、大神さんだけでこの会社独特の設計や建築の仕事を継続して行くことは可能でしょうか?」

大神は、少し考えてから答える。

「確かに、私は技術的な部分に関しては社長からほとんどのことを教わっていますから、当面の実務は何とかなるとは思います。しかし、当社は何と言っても六川弥次郎、上州の匠・弥次郎の店、というブランドでもって成り立っている会社ですから、私ふぜいの力では、これまでのような新規の受注を取ることは難しくなるかも知れません。」

「それはご謙遜と思いますが、確かに六川社長個人の力が大きいということは間違いありませんから、一刻も早く社長にお元気になってもらえるよう、私たちも支援させていただきます。」

大神が帰った後、初子が優也と真凛に言う。

「主人は、大神さんのことを、たった一人の愛弟子としてずっと大事にしてきましたので、技術的な面では心配ないと思っています。ただ・・・。」

母の初子が、その続きの言葉を言い難そうにしているのを見て、栄子が代わりに話し始める。

「お二人は専門家ですから、秘密は守ってもらえるものと信じて申し上げます。実は、大神さんは、かつて私の姉の幸子の婚約者だったんです。」

「えっ、そうだったの!」

真凛が驚いて言う。

そして、そう言えば以前に栄子から、7歳上の姉・六川幸子は一級建築士になって、父の後を継ぐ予定だという話を聞いたことがあるのを思い出した。

真凛が、遠慮がちに尋ねる。

「幸子さんは、今はどうされてるの?」

初子が言い難そうにしているので、これも栄子が代わりに話し始めた。

「姉は大学卒業後に、大手ゼネコンに数年在籍してから一級建築士の資格を取って、7年前の26歳の時に入社してきて、父は本当に喜んでいたんです。そして父の内弟子だった大神さんとお付き合いするようになって、その後に婚約して、あとは結婚式を待つだけだったんです。」

栄子は、ここで息を整えてから、話を続けた。

「その頃に、姉の元彼氏だって名乗る人物が突然現れて、脅迫を受けたんです。お金を出さないと、姉の恥ずかしい姿の写真をインターネットでバラ蒔くぞって。」

「えっ!」

真凛は、インターネット上の写真のことでは、自分も多少気にかかることがあるので、他人事とは思えなかった。

「それで、姉には覚えがあったみたいで逆らえず、結局その男性には父がお金を払って終わらせたのですが、それで大神さんとの婚約は破棄になってしまって。父は大神さんに申し訳ないと、大神さんを会社に残して、姉を追い出してしまったんです。あれから3年になります。」

「そうだったんですか・・・。」

「本当なら、姉と大神さんとが夫婦になってくれていれば、おそらく今の父はもっと楽に仕事ができていたでしょうから、今回のようなことにもならなかったんじゃないかと思っているんです。」

「そうなんですか・・・。」

「それで、スタッフとかにも噂が流れ始めたりして、それ以来大神さんと父との関係はギクシャクしたままで、意思疎通ができていない感じになってしまっています。」

「それで、お姉さんは今は?」

「この町にも居辛くなったのか、東京に行って、下町の小さな建築設計事務所で働いているらしいんですが、最近は全く連絡もありません。」

ここで優也が言う。

「それは本当に勿体ない話ですね。幸子さんなら上州の匠・弥次郎の店の伝統を継ぐ技術をお持ちでしょうから、小さな建築設計事務所では実力を持て余しておられることでしょう。」

「はい。実際のところ、父も姉には帰ってきて欲しい気持ちがあるんだと思いますが、大神さんの手前、それも言えないでしょうからね。」

優也の言葉も栄子の言葉も的を射ていると真凛は感じていた。

こうして、明日の月曜日以降の動きについての打ち合わせを済ませ、真凛と優也は本当に長かった一日を終えて、すっかり夜になった道を帰宅することになった。

真凛が言う。

「家族経営って、いろいろな要素が絡んできて、本当に難しいのね。」

インターネット上の写真の話が出てきてしまったので、優也は真凛にそれを思い出させないように気遣わなくてはと思い、言葉を選んで言う。

「そうだね。でもマリンちゃん、とにかく六川社長の気持ちが落ち着いて、もう夜逃げだけはなくなったみたいだから、僕たちが行った成果はあったんじゃないの。」

確かにその通りなので、真凛は安心したようだ。

(つづく)

※婚約破棄!しかも恥ずかしい写真で脅されてなんて、幸子さん可哀そう。マリンもちょっとだけ恥ずかしい写真があるけど、あれくらいなら大丈夫と思うから、優也さん安心してね!!