しらしんけん/何日君再来

~一途な愛と変わらぬ情熱の物語~ 連載第15回

第3章:変動 第2話

双葉梓が見た10年前に作られた遺言書には“蛯沢省吾が死亡したら全財産を蛯沢愛子に相続させる”と書いてある。

これはおそらく、長男の蛯沢啓太がE社を去った後に、啓太や当時は関係を断っていた中岡香織に財産が行かないようにするために作成したのであろうから、蒲池肇の指導であったとしても、一応は納得できる。

しかし、3年前、すなわちまだ前の専務取締役だった蛯沢正治が生存しており、香織が帰国する前の時点で作られた信託契約書には“委託者蛯沢省吾は受託者蒲池肇に省吾所有の株式会社エビサワオートの株式全部を信託し、省吾の死亡後は愛子に信託受益権の全てを承継させる”との趣旨の内容が書いてある。

もしこの契約が有効であるとするなら、E社の株式は蒲池肇に信託されているので、議決権は省吾ではなく蒲池が行使するということになってしまい、さらに蒲池の判断でE社の株式を他者に売却する事も可能になっているのだ。

双葉は問う。

「どうしてこのような内容の信託契約書を作られたのですか?」

「蒲池先生は、俺の認知症対策やち言よったんや。こうしちょけば、もし俺が認知症になってん、蒲池先生が代わりに会社の世話をしてくれるっち。」

今は蒲池は刑務所の中らしいから良かったようなものの、下手をすれば蒲池にE社を乗っ取られてしまっていたかも知れないのだ。

もしかしたら2年前に本多拓斗と一緒に “E社乗っ取り”を画策して蛯沢映子の家に出向いたのも、この蒲池だったのかも知れないと双葉は思った。

それにこの契約締結以後の3年間は、省吾の名前が書いてある株主総会議事録とかは間違いの文書ということになってしまうので、早急に対処しなくてはならない。

しかし、省吾は蒲池のことを心から信用しているようであるし、幸いなことに現時点ではE社にも省吾個人にも実害は及んでいないことから、双葉は蒲池の本当の姿を省吾に告げることなく、こう言った。

「信託に関しては、受託者の蒲池さんと連絡が取れないようですから、一般社団法人エビサワマニアに受託者を変更しておいては如何でしょうか? 一般社団法人の理事長は本多さんですが、理事には社長と香織さんが入っておられるので、蛯沢家の意向が尊重されるでしょうし、それなら社長お一人の印鑑で手続きが可能です。」

「分かったわー。じゃあそうするわー。」

さらに省吾は、不動産の登記事項証明書を示して双葉に言う。

「これも蒲池先生に言われてから、こん自宅不動産も、2年前まで毎年一部ずつを愛子に生

前贈与しよったんや。」

双葉が証明書を見ると、確かに毎年何万分の何百とか言った複雑で微妙な数字で不動産の共有持分が省吾から愛子に贈与されており、足し算をしてみると、現時点では全体の約3分の2くらいの割合が愛子の権利となっているようだ。

「蒲池先生は、俺の希望を叶えるため、あらゆる手を打ってくれたんや。今日、双葉さんに来てもろうた一つ目ん理由は、これからは蒲池先生に代わって、そういったことを手伝ってもらえれば、ちゅうことなんや。我が社と我が蛯沢家を助けてもらえればっち思うんや。」「それは構いませんが、ただこの方向性ですと、社長の財産のほとんど全部が愛子さんに渡ることになり、純治さんは愛子さんの子どもさんですから良いのでしょうけれど、香織さんや啓太さんには財産が渡らなくなりますね。」

「俺はそれで良いっ思っちょんのや。香織には武司さんちゆう立派なご主人がおるし、啓太は自分で生きてゆくっち宣言して、ここを出て行っちょんのやけん。」

こんな場合、双葉は少し困るのである。

今の日本の法律では、いかに本人の希望であっても、法律で決められている一定範囲の相続人には“遺留分”という非常に強い権利があり、蛯沢家のケースで言えば、仮に省吾の財産を遺言で愛子が全部取得したとしても、もし香織や啓太が裁判でもって遺留分を請求してくれば、愛子は彼らに、省吾から受け取った財産の一部を渡さなくてはならなくなるのだ。

争い事を好まない双葉にとって、香織や啓太が愛子と裁判で争う原因は作りたくない。

しかし、双葉は、省吾の遺言書の最後の部分に書かれている“付言事項”に記されていた次のような文章を見て、ここは省吾の思う通りにさせてあげるべきかと思った。

“私は、ライダーとしても、カスタムパーツ開発者としても、そして一人の男としても、本当に悔いのない人生を送ることができたと思う。それは、私がサーキットで愛子と初めて出会って以来、常に愛子のことを想い続け、愛子の笑顔を見るためにサーキットでは過酷なレースに挑み、愛子に裕福な暮らしをさせたいとの一心から会社での日々の仕事に励んできたからである。私の人生は、まさに愛子のために、愛子と共に生きた人生であり、愛子のおかげで幸せなものであったと確信している。愛子、本当にありがとう。肉体を失って魂となった後も、ずっとずっと愛しているよ。”

おそらく、公正証書を作った公証人が、省吾の大分弁の原稿を標準語に直したのであろうが、これが省吾の本心であるという事実を、双葉は改めて確信することになったのだ。

「こんな内容やけん、今まで誰にも見せちょらんかったんやけど、このまま愛子が帰ってこんくなってしまったらどうなるんやろうっち心配なんや。」

「遺言書は社長が書き換えようと思えばいつでも自由に書き換えられますし、信託契約書で受託者を交替する手続きも難しくはありません。しかし贈与の登記をしてしまった不動産は愛子さんの同意なしには動かせませんね。でも、愛子さんに財産を渡したいという社長のご意思が変わっておられないのであれば、もう少し状況を見てから考えましょうか。」

「もちろん、俺の意思は変わっちょらんけん。ただ、愛子が出て行った時の状況が・・・。それが双葉さんへの二つ目ん相談なんや。」

(つづく)