しらしんけん/何日君再来

~一途な愛と変わらぬ情熱の物語~ 連載第11回

第2章:それぞれの想い 第4話

中岡香織は、双葉梓行政書士からの指導もあり、“あちらの蛯沢家”とも仲良くするよう努力している。

蛯沢映子には、E社に対する鬱積した思いがある。

映子の亡き夫であった蛯沢正治は、E社を創業するまでは、実に良き夫であり父であった。

当時50歳過ぎだった正治は、別府温泉の土産物になる和菓子を作る会社に勤める、ごく平凡なサラリーマンで、一人息子の正泰は一流企業である横浜重工に就職して東京に行き、映子はあと数年したら夫婦水入らずで悠々自適の暮らしができると信じていた。

ところが降って湧いたようなE社設立の話で、映子は夫を実質的に連れ去られてしまう。

ずっと地味なサラリーマンとして暮らしてきた正治は、甥である蛯沢省吾の持つブランド力を利用して大きなビジネスをやれるチャンスを、まさに千載一遇と考えたのである。

そして正治は本当に24時間365日、身を粉にしてE社のために働き、E社をそれなりの会社にまで成長させ、さらに省吾の長男である蛯沢啓太を呼び戻して後継者とするための教育を進めるなど、そこまでは正治の思惑通りに進んでいたし、予定通りであれば正治は70歳になるまでには啓太に会社の仕事を任せて、妻のもとに戻って来られる筈であった。

ところが正治の緻密な計算の中に、啓太が突然に居なくなるという事態は想定されていなかったようだ。

そして結局、後継者を失ったE社は、75歳になった正治が心筋梗塞で倒れる日まで、創業時と何ら変わらない体制で事業を継続する以外の選択肢はなかったのである。

そのことを映子は、事情は十分に分かってはいても、未だに恨みに思っているのだ。

そのため、映子は夫の代わりにE社の専務取締役となった香織に、最初はとても冷たく当たっていた。

それが、本多拓斗が持ってきた“E社乗っ取り計画”の話のおかげで、香織との人間関係が構築されたのだ。

映子にすれば、省吾や香織の言いなりになるのは嫌だという意地はあったものの、いざE社を乗っ取るという話を聞くと、さすがに怖くなってしまったのであろう。

全くの他人で、ほとんど面識のない本多が、ある日突然、経営コンサルタントと称する、変な関西弁を操る怖そうな男と一緒に自宅を訪れたのだから、少しでも血の繋がっている香織の方を信じようと考え直したのも無理はなかったのだ。

映子の身の上は“仕事に夫を奪われた妻”。

よく考えてみると、香織自身も“仕事に妻を奪われた夫”を北京に残しているのであるから、実は映子とは相通じる身の上なのである。

そのこともあるのか、映子は省吾に対しては今でもなお厳しい態度を取るが、香織に対しては徐々に普通の親戚といった態度で接してくれるようになっていた。

いつものように映子の大好きな和菓子を手土産に携えて訪れた映子の家で、香織は耳寄りな情報を得る。

「実はな香織ちゃん、正泰が家族と一緒に帰ってくるみたいなんや。」

蛯沢正泰は正治と映子との間の一人息子で、横浜重工本社の総務部長として東京に勤務しているらしいが、まだ50歳を過ぎたくらいの年齢で、定年退職ではないだろう。

「転勤ですか?」

香織は軽い気持ちで尋ねたが、確か横浜重工には、大分県に支社は無かった筈である。

映子は少し重々しく言う。

「横浜重工っち、お家騒動があったやろ。」

そう言えば、今は堂々たる大企業であるが、元々は同族会社であった横浜重工は、大株主である兄弟が分裂して、それぞれに別の大企業のスポンサーがついて支配権争いをしているという報道を香織は耳にしたことがあった。

「はい、新聞や週刊誌で話題になっていましたよね。」

「そうなんや。大手の自動車メーカーとかアメリカのファンドとか、全然関係のねえ携帯電話会社とかが入り乱れて、大変やったらしいんやわー。」

「それで、どうなったんですか?」

「結局は大手自動車メーカーが味方した方が勝ったみたいなんやけど、その後の報復人事が凄かったらしいんや。」

「大企業って嫌ですよね。」

「そいで、正泰はあん性格やけん、どうやらよええ(弱い)方に味方しちょったみたいで、

今は総務部長を外されて子会社に飛ばされちょんのや。」

「えっ、そうなんですか。」

香織からのE社に関する連絡に対して、いつも折り目正しく返信して来る正泰のイメージを、何事も卒なくこなす企業人だと思っていた香織は、映子の言葉が意外であった。

「それでな、この際早期退職して別府に戻りてぇっち言よんのやけどな。どうしたらいいんやろうなぁ。」

“あの性格だから弱い方に味方”という言葉を聞いて、香織は何だか分からないが胸の高鳴りを感じたのであった。

(つづく)

 

登場人物紹介(第11回)

・蛯沢映子(えびさわ・えいこ 75歳)

亡蛯沢正治の妻で、夫を亡くした後は一人暮らしをしている。

高齢になった夫を心筋梗塞で勤務中に亡くしたことを、E社の責任と考え、蛯沢省吾を恨んでいる。

※こういう本もあるくらいですが、「株式会社に株があるから揉めるんだ」という視点は書かれていないと思います。そもそも「誰の会社なのか?」という発想自体に問題の本質があるのですが、偉い専門家も気付いていないようですね。