しらしんけん/何日君再来え

~一途な愛と変わらぬ情熱の物語~ 連載第8回

第2章:それぞれの想い 第1話

中岡香織にとって、二つに分裂した蛯沢家の中ばかりではなく、E社の中にも対処に困る人物が存在していた。

E社は、外から見れば蛯沢省吾の会社なのだが、実際には株主は省吾を含めて4名おり、しかも省吾が持っているE社の株式は全体の45%に過ぎないのだ。

E社は元々、省吾の叔父の蛯沢正治が主導して作られた会社で、設立の時には省吾と正治が各45%、そしてもう一人、省吾の1年後輩で、幼いころからの不良仲間、そしてレーサー時代には省吾のセコンド兼技師としてずっとサポートしてきたという、当時は本社の隣にあった工場の責任者を務めていた本多拓斗、すなわち省吾が“タクト”と呼ぶ人物が残りの10%の株式を持ってスタートした。

そして正治が亡くなった後、正治の持株は正治の妻の蛯沢映子と、その長男の蛯沢正泰が各22.5%ずつ相続しており、それで現時点での株主は4名ということになる。

中小企業の場合、株主が誰であろうと日常的には代表取締役などの役員が何でも決めてしまうので特に問題にはならないが、いざ何か大きなことを決めようとする時には、少なくとも過半数、できれば3分の2以上の割合の株式を持つ株主が合意しないと適法な決議ができないのだ。

映子は、夫であった正治を高齢になるまで会社に縛り付け、最後は勤務中に心筋梗塞で死亡させてしまったのは省吾の責任であると考えているようで、香織が戻ってきてからの経営方針に、最初の頃はことごとく文句をつけてきており、当時の香織は映子への対処に悩んでいたものであった。

一方、正泰は映子とは違って大人しい常識人らしく、E社とも取引のある大手オートバイメーカーである横浜重工という大企業に勤めており、現在は東京本社で総務部長になっているそうで、仕事が忙しいためか、母の映子に委任状を渡して直接的には何も口出ししてはこないのだが、委任状を渡すということは、少なくとも法律的には映子と同じ意見ということになってしまうのだ。

本多は、省吾の古くからの仲間であるということもあり、E社の中での権力は大きく、香織が帰ってきた後に、最も扱いに苦労した人物である。

本多からすれば、生まれる前から知っている可愛い女の子であり、しかもバイクの技術のことなど何も分からない香織が、専務取締役という実質的な上司になって突然現れたことが面白い訳はないのだ。

本多は、省吾の長男である蛯沢啓太のことは認めており、正治の死後は啓太が帰ってくるものと信じていたようで、自分とは考え方の異なる香織の方針にことごとく反対し、古くからの従業員を束ねてストライキを起こそうとしたり、どこの専門家に知恵を付けられたのか分からないが、映子の家に“自分と組めばE社を乗っ取れる”と言いに行ったことさえもあるくらいであった。

確かに、映子と正泰の保有株式が45%あるので、本多の10%と合わせれば過半数となり、少なくとも法律的にはクーデターを起こすことが可能なのだ。

しかし、実際にそんなことをして、蛯沢省吾という“蛯沢・愛”ブランドの根幹を失ってしまっては、E社の経営が継続できるとは思えないということくらい、少し賢い人間なら誰でも分かることである。

そのことには、さすがの映子も驚いて香織に相談しに来て、その結果として映子と香織の人間関係ができたという、本多にとっては皮肉な結果となったのだが。

結局その事件は、たまたま当時建設中であった新工場が30キロほど離れた九重(くじゅう)という場所に完成したので、管理部門と技術開発部門とショールームを本社に残して、部品製造部門を九重工場に移し、本多を社内独立のような形でもって工場の最高責任者とすることで決着した。

もちろん、本多も本気でクーデターを起こそうと思っていた訳ではなく、単に香織の方針が気に食わなかっただけだったので、それ以上の抵抗を示すことはなかった。

実は、蛯沢映子や本田拓斗など“抵抗勢力”の問題は、香織一人の力で対処できているのではなく、それは香織の“知恵袋”とも言える存在である一人の女性の能力に負う部分が大きい。

行政書士・双葉梓。

香織が帰国してE社に入り、いろいろなことで悩んでいる時に、E社に出入りしている生命保険会社の担当者から紹介された。

「あの先生なら良いアイデアを出してくださると思いますよ。」

まだE社周辺に信頼できる人物が一人も居なかった香織にとって、藁をも縋る思いであった。

鮮やかな金髪を靡かせる双葉の姿に、香織は最初は圧倒されるが、今では香織にとってもE社全体にとっても、なくてはならない存在に双葉はなっている。

(つづく)